日本でも震災を契機に幸せとは何か、本当の豊かさとは何か、ということが、それまで以上に深く考えられるようになってきていると思います。ありていに言えば物質的、経済的な豊かさが必ずしも「幸せ」や「こころの豊かさ」に直結するものではないということへの再認識でしょうか。
先般、ブータン現地で公務員として働いた日本人女性がブータンの日常をまじえて書いたエッセイ「ブータンこれでいいのだ」という本を読みました。それを読んでもわかるのは、(当たり前ですが)ブータンに苦労や苦難がないということではないということです。それでも皆が幸せを感じているのは「幸せ」の範囲が広いからなんですね。自分だけではなく、他人によいことがあっても幸せだし、今だけでなく、過去、未来、来世をも含めて幸せを考える。だから日本でよく言われるような「もっと幸せになりたい」みたいな概念はきっと希薄なんだろうなと思いました。
でも、もともと日本人も、このブータンに通じる感覚を持ち合わせていたように思います。幸せはなるものではなく感じるもの。幸せは探すものではなく気づくもの。足るを知る。そういう言葉がありますものね。そうすると「じゃあ弱い立場の人、貧しい人にも”足るを知れば幸せだ”といえるのか」みたいな論調が必ずでてきますが、そういう議論をしているうちは永遠にブータン人のような幸せは感じられないような気がします。
そもそも日本語の「しあわせ」は「幸せ」ではなく「仕合せ」でした。夏目漱石とかの近代文学を読んでいると「しあわせ」は「仕合せ」としてでてきます。調べてみると日本語の「しあわせ」の語源は「し合わす」。「し」は動詞「する」のこと。何か二つ以上のことが合わさること、つまり、たまたま偶然なめぐり合わせな感じ、それを有り難く感謝する感じ、それがもともとの「しあわせ」だったようです。
食料や物資が不足していた時代、その不足が解消すれば今より幸せになれると信じ、マイカー、マイホームをもてば幸せになれる、お金が増えれば幸せになれる、足らない何かを補えたら、誰かが何かをしてくれたら、と進んできました。確かに経済的発展を遂げました。それはそれで素晴らしいことです。しかし、そんな中で「仕合せ」を思う感覚が少なくなってしまったのかもしれません。
今後、この感覚の違いが今後のビジネスのありようにも大きく影響してくるように思います。モノやサービスで、足らないものを提供する、不満足を解消する、、。もちろんニーズがあればビジネスにつながります。「いつでも、どこでも、あなたの好きなモノが得られますよ」、、こういった従来型のサービスは魅力的かもしれません。
でも「仕合せ」感を考えると、物欲で何かを得ること、自分だけの充足感、優越感を得るといった低次な欲求ではなく、もっと他との関わりや貢献、そこから生まれる偶然性ある巡り合わせや、出来事、そこに価値が見いだされる世の中になっていくように感じます。ここらへんのパラダイムシフトをとらえないとビジネスがやがて経済的にも無意味なものになっていくのではないかと思ったりします。
【参考】
・ブータン国王が国会で演説
・「幸福度」国際社会に提案、日本と協力(朝日新聞デジタル)
・「ブータン、これでいいのだ」御手洗瑞子
・幸せの語源
・名言から学ぶ幸せのヒント
・「足るを知る」に騙されていませんか(日経ビジネスオンライン)
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