2011年4月30日土曜日

【エキスペリエンス・デザイン】

「ユーザーエキスペリエンス(顧客経験価値)」みたいな言葉が2000年頃から出てきていました。商品やサービスが成熟していくなかで、機能や性能で差別化することができなくなってきました。パソコンもテレビもケータイも車も、どのメーカーのものでもそんなに本質的な差はなかったりします。銀行も電話会社などサービスもそうです。そんな中でユーザーに提供する機能ではなく、ユーザーに提供するベネフットに重きがおかれるようになってきたということだと思います。

あるアメリカの地方銀行が、大手銀行とは商品力や価格では勝てないと認識し、雰囲気の良い店舗、行員の接客など、銀行を利用する過程での顧客満足度を高める戦略をとり5年で預かり資産を約3倍に増加させたという事例があるそうです。サービスにまつわるユーザーエキスペリエンスを高めたということですよね。

1980年代のソニーは新しい製品を生んだのでなく、次々と新しいユーザーエキスペリエンスを生んだと言えると思います。Walkmanは「家の中で聴く音楽を自由に外に持ち出す文化」を創り出しました。ビデオデッキは「連続ドラマを見るために放送時間までに家に帰らなければならない」という常識を変え、8ミリビデオは「自分の子供の成長を簡単に記録するのは写真以外にはない」という当時の妥協を打ち破りました。

今、Appleが熱狂的に支持されるのは、優れたユーザーインターフェイスを持つデバイスやアプリケーションとクラウド上のサービスを一体的に統合し、ユーザーにこれまでなかったようなわくわくする経験を提供しているからですよね。

昨今のソーシャルメディアの普及、クラウド化、デバイスやサイネージなどのユーザーインターフェイスの進化によって、冒頭の「エキスペリエンス」がまたキーワードになってきていると感じます。

前回もふれたとおり、今後、商品やサービスはユーザーに新しい体験、より快適で充実した体験を提供できるか、そのお手伝いができるか否か。それが競争力の本質になると思います。音楽ビジネスもメディアビジネスもエンターテイメントビジネスも同じです。本質的に考えないといけないのは、届けるコンテンツの種類や伝送路、デバイスの機能の話ではないと思います。

ユーザーはテレビやパソコン、ガラケーなど従来型のデバイスのみならず、iPhone、Androidなど多機能デバイスとその搭載アプリ、リアルな場でのデジタルサイネージのデバイス等、多様化、オープン化したインターフェイスからいつでも簡単にメディア空間へアクセスできるようになりました。そこに制約があった時代は、例えば企業は自社のWEBサイトを用意して、そこに至る導線を敷いて、いかに多くのユーザーを誘導できるかを競争すればOKでした。クリック数が成果だったりしたわけです。

しかし、もはやそういう時代ではなくなりつつあります。企業は公式ホームページを一つ作って終わりではなく、ユーザーが保有する多様なインターフェイスに自分から出て行って近づいていく必要がでてきました。そしてソーシャルにつながったコミュニティにお邪魔しなければいけません。そこでは信頼なくしては誰からも相手にされなくなります。

音楽やエンターテイメントでもユーザーに満足してもらうためには、どんな優れたコンテンツを提供するかということだけでなく、どんな優れたエキスペリエンスを提供できるのか、そのために何をすればいいのか、そんな「エキスペリエンス・デザイン」を考える必要がでてきているのではないかと思います。

出所:NRI 知的資産創造 2011.1 
















参考)
http://www.nri.co.jp/opinion/chitekishisan/2011/pdf/cs20110103.pdf
http://www.atmarkit.co.jp//fitbiz/serial/xp/01/01.html
ITロードマップ2011年版

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前回はバーチャルワールド、マトリックスへのジャックインなエキスペリエンスの話をしましたが、同じくシュワちゃんの映画で「トータルリコール」っていうのがあります。そこに登場するリコール社っていうのは、記憶を売る会社、エキスペリエンスを売る会社っていう設定です。実際に火星に行くかわりに、記憶を機械的に操作し、火星旅行のバーチャル体験ができる。違う自分になる様々なオプションもお金で選択できる、諜報員になって危険な任務をこなし、魅力的な女性と恋に落ちるってことも。これこそ究極のエンターテイメントメディア会社の姿かもと思ったりします。

2011年4月28日木曜日

【未来に向けてメディア体験の形は?】

前回からの続きです。ソーシャルメディアが普及進展し、コミュニティが多様化し、拡大し、リアルな場とも連関しながら、コミュニケーションのあり方自体が大きく変化し始めています。

もちろん生身な人間が関わることなので、プリミティブなコミュニケーションの本質は変わらないかもしれません。しかしテレビ50年の歴史とは比べものにならないの速さで、本質的な変化が進行しつつあることは間違いありません。あと数年で、どんなことになるんだろうと考えてしまいます。

◆これまでメディア体験というのは、なんらかのデバイスから伝送路を通じてコンテンツにアクセスする、コミュニケーションする、ということによるものだったと思います。コンテンツはリッチになり、ユーザー側の選択肢も増えましたが、基本的なメディア機能の変化は少なかったのではないかと思います。

◆しかし、今、見え始めているメディア像は、個々のコンテンツへのアクセスやコミュニケーションがもっと統合された世界であるように思えます。 デバイスとか伝送路の重要性は相対的に低下し、活発な情報がやりとりされるリアル、バーチャルなコミュニティ空間、情報空間の重要度が増していくのではないかと思います。

個々ユーザーであり送り手でもある個人は、そういう「ワールド」に、いつ、どこから、どういう目的でアクセスを開始するのか、そしてアクセスできる世界観は何か、そこでユーザー間で交換される情報や思いの質と量はどうなっていくのか、ということが主要議題になってくるのではないかと考えるわけなんです。

なんだか、わかりにくい話ですよね。

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誤解を恐れず、簡単に究極の姿をいってしまえば、いよいよ映画「マトリックス」のコンセプトの世界に徐々に近づいていくのではないかと想像します。
普段は、地下都市で現実世界を生きているんだけど、ジャックインしてバーチャルワールド「マトリックス」に没入する。そこでは現実世界と同様なコミュニケーションや体験がある。
CPUパワーの進化を考えるとあながち夢の世界ではありません。2018年にはCPUのトランジスタ数が、人間のニューロンの超えるという計算があります。たった7年後ぐらいです。

もちろん、ここまですぐに至るとは思いませんが、メディアにアクセスの仕方に「チェックイン」という概念はもう出始めていますよね。 詳しくは佐々木俊尚さんの「キュレーションの時代」を読むといいです。
キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)

これからメディアはコンセプトをベースにコンテンツが統合集約され、一つの世界観を提示するものになっていくのではないか。

その中で、メディアの役割としてシステムの中の「エージェント」な役割をどう果たせるかということになるのではないか。ユーザー主導の中で、いかにメディア企業が、ユーザーのメディア体験をより快適で充実したものするお手伝いができるか否か。それが競争力の本質になるのではないかと思うわけなんです。


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2011年4月26日火曜日

【メディア変化の本質は何か】

前々回、前回とテレビを中心とするこれまでのメディアの流れみたいなことを考えてみました。要するに今、起こっているメディア変化の本質は何なんだろう?と考えてしまいます。

テレビの時代
 (コンテンツ充実と画質向上、一対多のコミュニケーション)

テレビが開始された1950年代から2000年代前半まで、テレビは順調に全世帯に普及浸透し、チャンネルがふえました。経済成長の中で、大量に投下された広告費によってコンテンツの拡充が進み、テレビは文化発信の中心として大きな影響力を発揮しました。
人々はマスメディアに対峙し、その豊かなメディア体験に没入しました。

テレビ受信機も技術の進化によって画音の向上、白黒からカラー、更にハイビジョン、サラウンド、から3D、スーパーハイビジョン、プラズマ、液晶、有機ELなどテクノロジーとしては進化しました。
しかし本質としては、基本的にプロの送り手がつくったもの、集めた情報をマスに一方向に届けるという枠組みが変わったわけではありません。

ここまでは、送り出すコンテンツの良し悪し、送り手側はリーチの競争、画音の品質の議論をしていたわけなのかと思います。

◆ネット時代の幕開け
(伝送路の多様化、双方向化)

1990年代に入ると、インターネットという新しい通信手段が生まれ、PCやケータイをデバイスとして、だんだんと個人レベルでリッチな情報にアクセスできるようになってきました。通信によってメールやホームページ、ECなどで双方向のやりとりが個人でハードル低くできるようになりました。

送り手としてもマス以外の伝送路も選択肢として選べるようになってきました。人々はマスメディアに対峙しつつも、同時に別のメディアにも「ながら」でアクセスできるようになりました。

マスメディアは一斉同報をベースとしたきっかけメディアとして、深い情報はネットで、、みたいな区分も語られました。要するに「これからはマスとは別の選択肢もあるかもね」ぐらいな話です。

伝送路の多様化の議論、送り手側は新しいコンテンツの形と、それに対するユーザーリアクションの多寡について議論し、競争していたのかと思います。

◆ソーシャルメディアの立ち上がり

2000年代後半に入るとネットのブロードバンド環境の普及進展とデバイスの進化をベースとして、ソーシャルメディアというものが立ち上がってきましした。ブログ、ツイッター、SNS、ソーシャルゲーム、、。 あっという間に高品質な映像、音声、テキスト、位置情報、あらゆる情報コンテンツが個人レベルで集約、再構築して発信できる“コスト0”で構築できるインフラが整ってしまいました。

ここで、送り手の概念が始めて大きく変わり始めたのではないかと思います。これまでのマスは解体され始めます。個々のユーザーが発信し始め、送り手としての役割も果たすようになります。


これにともないメディアとしての伝送路やコンテンツ中心の話からユーザー間のコミュニケーションの質の内容の話が中心になってきます。メディアやコンテンツプロバイダーは、そういうユーザーコミュニティに対して、どういう場や価値が提供できるのか、とういうことを考えるようになります。

Facebookの「いいね」ボタンやソーシャルブックマークの機能によって、ネット上のあらゆるマルチメディア情報が相互に連関します。コミュニティが形成され、その中で新しい信頼関係が構築されはじめます。マスメディアによるレコメンドが信頼のベースだった時代から、レコメンドエンジンによる情報アクセスが進展、さらにソーシャルレコメンドによる、個々人にとって、より信頼度、納得度が高い情報アクセスのルートが生まれつつあります。

信頼に足るプロの送り手がソーシャルメディアを活用し、個人の責任のもとで情報や見解を発信するようになってきました。アーティストも自らパフーマンスやコンテンツ発信するようになってきました。

UstreamとTwitterなどソーシャルストリームを連携させることによって、本当の意味でのリアルタイムな双方向にコミュニケーションできる場が実現されてきました。そこには、一方向だけだったメディアとは違う没入体験が生まれ始めます。

Foursquarのような位置情報を使ったサービスも普及。AR技術などを連携させながらリアルな場、リアルなイベントとバーチャルに連関させる情報ルートもインフラが整ってくるように思います。

◆これからのメディア体験は?

じゃあ、こんな変化から、これからメディアはどのような捉え方をされるようになるんだろう? (続く)

2011年4月22日金曜日

【ソーシャルメディアの普及】

前回からの続きです。
2000年代も後半、2006年頃から、今のメディア変化につながるタネみたいなものが続々と誕生してきます。家庭のインターネット環境も大容量、常時接続、定額のブロードバンドが普及し、携帯電話もFOMAなど3Gが主流になっていきました。ガラケーの高性能化もめざましいものがありました。

◆動画共有サイト:
YouTubeというものがアメリカで流行ってるんです、みたいな話も聞こえてきました。動画共有サイト?なんか違法な感じのサービスのニュアンスがありました。 静止画ではなく、動画レベルが個人がネット上で発信できる環境がでてきたのかと。 日本のニコニコ動画も2006年末にサービスを開始します。1年もたたない間に月間PV数が1億を越えたみたいな話もであました。動画をみながらつっこみコメントするみたいな後の動画+ソーシャルストリーム連動の原型みたいな形がでてきたということでしょうか。

◆ブログ:
2002年ごろから広まってきたブログなるものが急速に普及し始めます。タレント、著名人のブログも増加、眞鍋かをり、しょこたんなど、ブログの女王などといわれる人もでてきて月間で何千万PVというアクセス数のものも出てきました。2007~2008年ごろの話です。マスメディアを介さず芸能人の声に直接アクセスできる、あわよくばリアクションが得られる、そんなことになってきました。 

◆SNS:
そんな中、mixiという招待されないと入れないクローズのソーシャルメディアが流行り始めている、みたいな話も聞こえてきます。インターネットの隕石が落ちたという話をソニーの出井さんがして始めたころから、「コミュニティ」というワードがキーになっていくというような話は認識していましたが、それが「こういうことか」と可視化してきたように思いました。マニアックな趣味嗜好でもmixiで探せば簡単に一定人数の同じ嗜好の人が見つかります。こんなことは、これまで中々ありませんでした。 こういうことはニフィティサーブの時代からあったのかもしれませんが、これほど広く普及したことはなかったわけですからね。

◆ケータイゲーム:
ケータイでゲームが流行っているという話も聞こえてきます。ケータイ専用ゲームサイト「モバゲータウン」が開始したのも2006年です。 GREEも2006年ごろから普及し始め2007年には100万人突破しました。(2009年には1000万突破というスピード)

◆ツイッター:
2009年末ごろからはツイッターっていうのが一部で流行ってるという話が聞こえてきます。何それ?って感じだったのが、徐々にその本質が認知し始めます。ホリエモンがツイッターを開始したのが2009年6月、7月には勝間和代、広瀬香美、孫さんがツイッターを開始したのが2009年12月。そんな昔の話じゃありません。ツイッターのフォローする/しないの特性で、自浄作用があり、荒れることが少ないSNSが誕生したと思いました。
そして個人の発信力が相当レベルで高まったことを感じました。テレビほかあらゆるメディアも、企業もTwitterを活用したコミュニケーションを開始します。ユーザーとのダイレクトコミュニケーションが白日のもとで行われる時代。企業が体裁を整えた発信だけでは信頼されなくなってきたように感じます。 このトレンドは、ここたった一年ちょっと、こんな短い期間の中で急速に実感されてきたことではないでしょうか。

◆スマートフォン:
端末にも大きな変化がててきます。初代iPhoneが2007年に発表されます。 2008年ごろ当初は多くの人はスマートフォンに対して懐疑的でした。都市の一部の人たちのニッチなものだ、という感覚でした。「今の電話で困っていない、これ以上高機能はいらない」ということもあったと思います。しかし、その予想と違い、スマホはガラケーを駆逐し始めています。

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ここらへんまでが2000年代末(2006年から2009年末頃)のことです。

そして2010年代を迎えます。
iPadが発売され話題になったのも2010年。 Xperiaなどアンドロンイドが認知され始めたのも2010年に入ってから。電子書籍みたいな話題もでてきます。タブレット型デバイスを前提としたメディアモデルも模索が始まります。twitterのようなソーシャルストリームとUstreamのようなライブ配信インフラもここ一年ぐらいで認知が進みました。実名をベースにしたSNS、Facebookが日本でも普及をし始めています。たった1年ちょっとの間の変化のことなんですね。

そしてこれから何が、どう進むのでしょうか? (さらに続く)


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2011年4月18日月曜日

【街角テレビからYouTubeまで】

●1950年代
日本でテレビ放送が開始されたのは1953年。もちろん白黒の小さい画面。20インチ~足らずの街頭テレビに群集が食い入っている写真があります。1954年の「力道山vsシャープ兄弟」では新橋駅前に2万人が集まったそうです。家庭に普及し始めて皆、テレビに没入し、わくわく度マックスに振り切れるぐらいのメディア体験をしていたのではないかと思います。 
← 新橋駅で街頭テレビに群がる人たち。 
●1960年代から1970年代
1960年代に入ると、カラー放送が始まりました。僕も子供のころにウルトラマン、巨人の星、オバQ、サリーちゃん、ゲバゲバ90分、、次から次への怒涛のような楽しいテレビ体験に没入しました。
1970年代にはいるとドリフ、スタ誕、マジンガーZ、キャンディキャンディ、と学校の話題はテレビを中心にまわっていました。ちょうど、ちびまる子ちゃんの舞台になっている時代(1975年頃)です。

●1980年代から1990年代前半1980年代になると家庭にはビデオが普及し始めます。テレビにあわせていた生活が変化、チャンネル争いも軽減します。ファミコンなるものも登場し、テレビは単に放送を受けるだけのものではないという認識変化が起こりました。 でも1990年代、フジテレビの月9全盛時代は、街からOLが消えるといわれる現象もあったほど、まだまだテレビには絶大な影響力がありました。テレビからヒット曲やタレントがどんどんブレイクしました。 そんな中で、1990年代初頭ぐらいから徐々にインターネットなるものが話題になってきました。

●1990年代後半1990年代の後半Windows95の登場ぐらいから個人で(低速で高額な)ネットの利用が始まってきました。単にネットを閲覧しているだけなのに「ネットサーフィン」というのが、なにやらおしゃれな響きさえあった時代です。1990年代の後半は携帯電話の個人普及も立ち上がり始めます。
ただ、この当時は、まだネットやケータイがテレビのビジネスモデルに大きな影響を及ぼすとまでは想像していませんでした。ましてメディアの位置づけでもありませんでした。何か便利なツールになっていくのかな、という感覚でした。 (i-modeの登場は1999年です)
そんな中、1998年にスカパーが放送開始。 なんとテレビから何百ものデジタル高画質の多チャンネル放送がみれる! しかも宇宙衛星から降ってくるなんて!という先進的なニューメディア登場でした。
そんな1998年はアメリカの大学生がGoogleを創業した年でもあります。ネット上ではYahoo!、MSN、Exiteなどポータルサイトが乱立します。2000年にはドットコムバブルがピークを迎えます。

●2000年代前半
2000年代に入り、PCネットやi-modeが更に普及しはじめると、放送業界では「ネットはテレビの敵なのか」みたいな議論も起きてきました。 「どうも最近、ネットとテレビを一緒にみている人も多いらしい。その現象を“ダブルウィンドウ”、“ダブルスクリーン”と名づけよう」なんて話もありました。
テレビの薄型大画面化も始まります。でも最初のころは50万円以上の高額商品。それでもデジタルハイビジョンは新しいテレビ体験を感じさせました。
一方、総務省は新しい放送の枠組みとして、次は高機能放送だ、という方針を打ち出しました。デジタル放送の特性を利用し、データ放送や双方向で新しい楽しみや利便性を追求しようという戦略です。110度CSは、高機能放送メディアとして免許審査が行われました。しかし、この目論見は完全に外れました。通信回線が高速大容量化すると、テレビのVODにも期待が集まりましたが、これも大きく成功しませんでした。 

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テレビはカラーになって、高画質化して、大型化して、双方向機能を備えました。でも90年代まであった、テレビ没入体験、わくわくMAXな体験はだんだんと減ってきたように思います。

テレビやネットなどメディアの種類ではなく、わくわくするようなメディア体験ができるところに、人は集まり、そこからビジネスの成長が始まります。技術的に可能なことがユーザーの求めることではないんですね。

そんな中、2004年にMixiやGREEが事業を開始します。アメリカでは2004年にFacebook、2005年にYouTubeが始まります。それが2000年代の後半に差し掛かる頃のことでした。 (続く)
 
 

2011年4月8日金曜日

【糸井重里さんの話】

そんな「信じる」なんですが、今ほど、いろんなメディアから「信じる」とか「believe」の文字が溢れていることはなかったんじゃないかと感じます。 通勤電車の広告ではBLENDAの「I Believe ~信じてる、自分を、未来を、日本を。~」ってコピーの表紙が新鮮でした。

一方、今週出ているBRUTUSは、糸井さんの特集号なんですが、そこでも糸井さんの「言葉」の話や「信じる」話がたくさん出てきました。(但し、糸井さんへの取材は震災前のものです)。ちょっと紹介します。
BRUTUS (ブルータス) 2011年 4/15号 [雑誌]

●お金より信用
奇跡みたいな出来事を起こすのはなんなのか、ということを僕らは考えていかなくちゃいけないんです。そこで“お金より信用”という話になる。(略) 僕の言いたい信用は、(略) 「この人たちと一緒になにかを作ったら楽しかった」、「明るさを取り戻せた」、「希望を感じた」とか、そういった種類のものだと思っています。 (略) 信用をちょっとずつでも増やしていけば、お金はいつか誰かがもってきてくれるかもしれない、いつか稼げるようになるかもしれない。 僕は信用さえあれば、そっちはなんとかなると思ってるんです。

●信じきれば失敗なんてないじゃん。
信じるって、リスクもあるし、理にかなってないかもしれないし、損することもあるかもしれない。だけど、その損なんて大したことないでしょう。(略)信じきちゃってバカをみても大したことじゃないんだと。「失敗してやろう」とまで信じられたら。失敗なんてないじゃん。

●信じあう。そこから価値が生まれる。
0から1を作ることが一番価値があるし難しい事なのに、他人が言った「種」をどうこうしようとするばかりになっている。大事なのはまず「1」を生むことなんじゃないか。(略)人間同士が集まると、何だかわからない、名づけようのない価値が生まれるんです。(でも人間同士が知り合おう、信頼しあおうことに対して自分で)自分を邪魔しているものが、ものすごく多いんですよ。 それを解くための方法っていうのは、まずゆっくりと信じあうことなんだと思うんです。

●理想的な組織の矛盾
「理想的な組織に近づけば近づくほど、どうしたって穏やかな宗教みたいになっていくわけですよ。みんなが、同じように組織にとって正しいこと、なおかつ社会やお客さんが喜ぶことを考えている状態で、誰に聞いてもちゃんと全体がわかっていることを言うって状態。」(略) (でも一方で、企業が社員みんなに) 「“こう思ってほしい”と思うことがあるんだけど、それをやった時には、矛盾して、みんなが閉じた世界で完成度が高くなるほうにいく。世の中と違うところで快適になってしまうと、外に出て行ったときに、もう開くことができなくなると思うんです。これは答えがないから頭が痛いよね。」

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僕は、こんな文章を読んでいて会社における理念、ビジョンってのも、ある種、穏やかな宗教みたいなものなのかとも思いました。 リスク覚悟で、多少理にかなってなくても信じきる。もちろん、盲目的、集団的に信じる、頼るというものであってはいけないと思います。個々人が考えることが大事なんです。
そんな人と人が集まり、信頼しあうことによって、生まれる価値がある。その価値が希望や、明るさ、楽しさになっていく。 その価値を生み出す過程の共有が信用につながる。最終的に、そういう信用の蓄積がお金になりビジネスになっていく。 

その後、糸井さんは「ほぼ日」で“「信」って、「人の言」って書くんだねー。びっくりした。”って書いてました。http://www.1101.com/20110311/20110404.html
確かに「信」という字は「人」+「言」と書きますよね。辞典によれば、言は、言明(はっきりいう)の意。信は「人+言」で、一度言明したことを押し通す人間の行為をあらわす。途中で屈することなく、まっすぐのび進むの意を含む。「信」とは“人が言明したことや約束したことをどこまでも守り通すこと”が会意なんですね。
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P.S
教えてもらったサントリーのCMがみれるサイト。音楽で涙がでます。
http://www.suntory.co.jp/enjoy/movie/d_s/880953901001.html


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2011年4月5日火曜日

【「believe in」】

前回まで、「信じる」話や、それに伴う「責任」、「コミットメント」、「思い」の話をしてきましたが、今回は英語の字面や解釈から。

●「believe in」

日本語の「信じる」という言葉は英語だとbelieveとかtrustとかいろんな単語や熟語がありますが、重くて深いのはやっぱる「believe in」ではないかと思います。

辞典によれば …の存在を信じる、信仰する、みたいな定義がのっています。 なので「believe in」 に続く言葉は、GodやMiracle、Reincarnation、Ghost、Buddhism、Democracy、Loveやら、神や宗教や愛やら主義主張、崇高な概念な多くなります。

一方、「believe in」から「in」をとった、そもそもの「believe」という他動詞は、もう少し軽い感じのようです(文法的な解説はしませんし、できません)。 ある参考本によればbelieveの基本概念は「to feel sure」であるとありました。ロジックではなく感性で確かだと感じること、どうも、それがbelieveなんですね。

辞書によればbelieveの意味は、“〈話などを〉信じること/信じていること、(但しその内容は真実とは限らない)”とあります。

例文) I believe a story 話をほんとうだと思う。  
例文)I believe you. ごもっともです,そうですとも。
君の言うことは信じるよ。

、、、believeと言いながら、信じきっていない感じさえ伝わってきますよね。

でも「believe in」になると、そうはいきません。believeにinをつけると“faith”が加わるらしいです。faithというのは信念、信条、信頼、信仰、確信、、、です。 

真実として、疑いなく信じきっているということになるんですね。


2011年4月1日金曜日

【ベーコンor エッグの話】

さて今週、本屋でふらっと買ったのが「マネージャーの実像 ~管理職はなぜ仕事に追われているのか~」。
読んでみて、“そう、そうなのよ ”と納得のエピソードや説明があったので、いくつか紹介します。(ちなみに、ここで使うマネージャーとは、社長から課長まで管理職全般のことを言っています)

●マネージャーとは指揮者なのか?
①ドラッカーはマネージャーとは「オーケストラの指揮者に似ている」というたとえを使いました。一つ一つの楽器の音だけでは意味のなさないものも、指揮者の努力とビジョンとリーダーシップを通して、一つのまとまった音楽になる。(かっこいいです)

②一方、カールソンという研究者は、「むしろマリオネットだ」といいました。大勢の人が操り糸を好き勝手の引っ張り、てんでんばらばらにマリオネットを動かそうとする。(かわいそうです)


でも実際、多くのマネージャーが一番共感するのはセイルズという研究者が言う以下のイメージとのことです。

③「マネージャーは確かに指揮者に似ている。団員の演奏や行動を調整し、調和のとれた音楽を生み出そうと努めなければならない。しかし個々の団員のレベルも違うし、性格もバラバラ。皆、勝手なことを言うし、ときに仲たがいを始めたりする。舞台係からは、どこに楽譜台を置けばいいのかみたいな細かいことを尋ねられ、ホールが暑いの、寒いので空調にも気を配らなければいけない。スポンサーは、どたんばになって曲目を変えてくれと理不尽な要求をしてくる」

ここで言う指揮者というのは本番の勇壮な姿ではなく、あらゆる不都合が立て続けに立ち上がり、そのたびに迅速な修正をしなければならないリハーサルの姿だということです。

僕は、これにすごく納得しました。これまでの社会人生活の中で、接してきた多くの管理職は、みんなこんな感じで仕事をしていたように思います。

●マネージャーと権限について。
マネージャーでない人が新人マネージャーになると、頭に最初によぎるのは。「よし、これで決定を下して命令を出せるぞ」ということです。しかし、すぐに権限が与えてくれる力はごく限られたことだと気づきます。
おかしいぞ、これは権限が小さいからだ、下が言うことを聞かないのがおかしいんだ、と悩みます。しかし、あるときに気づく訳です。「そうかマネージャーになるとは“ものごとを成し遂げるために、、、それまで以上にほかの人に依存することだったんだ”」と思い知る、、という話です。
これにもすごく納得しました。権限があれば成果が出せるなんてもんではないんです。首相や東電の社長をみればすぐわかりますでしょ。

●ベーコンエッグへの貢献の話。

じゃあ、マネージャーって、どういうものなんだろう。ひどい例えがありました。朝食のベーコンエッグをつくるために、ニワトリは卵を提供することで参加し、貢献していますよね。しかしブタは、文字通り、わが身を提供しています。コミットメント、献身とはこのことだ、ということです。

そして、マネージャーとはマネジメント、組織、ミッションに、社会に、ベーコンエッグのブタのように、どっぷり浸からないと機能できない、ということです。ほんとヒドイ仕事なんですね。



●松下幸之助さんの例え

最後はパナソニックの創始者、松下幸之助さんの話。
「大きなことと、小さなことに対処するのが私の仕事。中程度の問題は部下に任せればいい。」 
リーダーたるもの、大小にかかわらずマネジメントに関わることを他人任せにしてはいけない、ということでしょうか。 マネージャーは大きな仕事をやるために存在するのでなく、部下に任せられるようなルーチン業務以外の、面倒なことばかりを引き受ける損な役回りなんですね。


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