2012年6月19日火曜日

【戦略とストーリー】

ビジネス戦略の話に「ストーリー」という言葉が頻出するようになってきました。そういうタイトルの本も売れているようですし、チーフ・ストーリー・オフィサーという役職も現れました。なぜビジネスにおいて「ストーリー」が注目されるようになったのでしょうか?

前回、世の中がモノから気持ちへ、機能の良し悪しから、好き嫌い、共感の有無という時代に移行しているという話をしました。ダニエル・ピンクという人は「ハイ・コンセプト」という著書の中で、世の中は産業社会から情報化社会を経て、コンセプチャル社会に移行していくと指摘しています。つまりビジネスにおいて重要な差別化要因が左脳的なものから右脳的なものへ、ロジックから情緒・感覚へ重心が移っているということだと思います。

IT技術とインターネットによって情報流通量が爆発的に増大し、情報へのアクセシビリティは飛躍的に向上しています。そうすると単に情報をデータとして蓄積したり、送信することの価値は相対的に低下していきます。情報をどうキュレーションするかの方に付加価値が移行する訳です。

また大量消費社会が引き起こした地球環境破壊もあいまってモノを所有することが幸せに直結する訳でないことが明らかにもなってくる、社会が成熟し、高いモノをもつことが記号として、かっこいいことでなくなってくる。更に日本においては震災のこともあいまって、企業活動においても絆や共感といった情緒的なものが、モノやサービスを選択する価値観として重要になっている。。

こんな環境と意識の変化の中でモノやサービスの消費活動においても、その背景に共感を呼ぶコンセプトを伴う「ストーリー」のありなしが重要な選択基準になってきているんだと思います。

「ストーリー」には様々な構成要素があります。まず舞台設定(世界観)がある。語り手がいて、出演者(キャラクター)がいる。シナリオがありシーンが生まれる。ビジネスにおいても、これら要素を念頭においていく。
モノ、サービスを提供する中でも「誰に、どこで、何を、どうやって提供するのか」、「なぜ、それをしているのか」を考え抜く。そういうストーリーの有無や志の違いを消費者は敏感に嗅ぎ分けます。それが大きな差異につながっていきます。

ワールドビジネスサテライトのコーナー「スミスの本棚」で紹介された本が急に売れ始めるのも、総選挙や握手会やググタスでコミュニケーションを図り続けるAKBが売れるのも、アニソンというジャンルが比較的好調なのも、その背景に「ストーリー」をしょっているからと言えるからじゃないかと思うわけです。

参考)
ストーリーとしての競争戦略 ―優れた戦略の条件
ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代
物語編集力
杉山恒太郎氏がクリエイティブラボ「PARTY」の「Chief Story Officer」就任
ストーリーを語るだけでは人は動かなくなった

2012年6月2日土曜日

【モノから気持ちへ】

総選挙の投票券が封入されたAKB48のシングル『真夏のSounds good!』が発売され、初回出荷枚数は200万枚を突破、初日の売り上げは117万枚を超えたとのニュース
付録の握手券や総選挙の投票券を目当てに大量複数買いするファンも少なくないとも。
大量購買されたCDの行方といった記事もありました。


AKBが売れているのは純粋に音楽が売れているわけではないということはもはや皆わかっていることですよね。気持ちのもっていきようの一つとしてお金が動いている。CD付の握手券を確信的にお金を出している。節約を重ねて海外旅行で散在するのと変わりません。別にだまされている訳じゃないですよね。
CDというモノを買っている訳ではないので、用が終われば売ったり、捨てたりするのは当然です。大事なのは体験や無形の気持ちやのほうだからです。

体験や気持ちには原価という概念は似合いません。

実はアップルの製品購入にも同じような働きがあると思います。多くの人がアップルの製品やサービスにはお金を払う。実は原価が安いとわかっても別にかまいません。なぜなら、そこにアップルやジョブズという共感の対象をみているからです。
だから、どんなにハイスペックのデバイスでも、そこに共感し、支持したいと思う人格が感じられなければコモディティ商品と変わらない扱いを受ける。

世の中は、モノから気持ちへ、機能の良し悪しから、好き嫌い、共感の有無という時代に急速に移行していると感じた次第です。

2012年6月1日金曜日

【プロとアマの違いの話】

【プロとアマの違い(1)】

右の図は少し前にSNSでみかけたプロとアマチュアの仕事の進め方の違いを示すグラフ。早い段階で全体像を見せ、締め切り時点は必ず期待を超える品質の仕事に仕上げる。確かにプロはこうでないといけないと思います。

細部にこだわり全体観をなくすと、求められる成果にも辿りつけないかもしれません。それでは意味がないですものね。

【プロとアマの違い(2)】

次の表は、その昔カンブリア宮殿で大和ハウスの会長さんがふれていたらしいプロとアマの違い表です。
言われたことを作業として捉え、締め切りまでに終わらせる、という感覚ではプロの仕事はできないということだと思います。
自らのミッションを認識し、期待を超えることを習慣化すること。可能性を追求してこそのプロなんですね。




【プロとアマの違い(3)】
最後にプロとして仕事の品質を上げていくキーワードとして「3S」を思いつきました。一般的に3Sというと仕事の基本「整理、整頓、清掃」らしいですが、この3Sはシンプル、ストレート、スピーディ。

◆シンプル:
簡単なことを難しくいうのは比較的簡単です。問題の本質はつきつめれば一言で表せないといけません。戦略策定も課題解決も全て同じです。プロならばシンプルにしていくこと、無駄なことを削っていくこと、成果を最大化するために集中すべき本質を見極めることに貪欲である思います。

◆ストレート:
島国や村社会は特有のファジーな美徳はビジネスにおいては障害になります。傷つけないように、嫌われないように、気まずくならなうように、言いたいことも言えなくなってくると、組織は疲弊し、効率や品質は悪化していきます。思った意見は口に出して意見を戦わせる。サラリーマン川柳で「我が上司 命令ファジーで僕ビジー」ってのもありました。ストレートに議論し判断を先送りしないこと。これも重要と思います。

◆スピーディ:
そして、とにかくスピードです。忙しいから仕事が滞るというのは嘘です。上記のグラフの示す通り、スピードをあげることによって失敗を回避でき、挽回が可能になり、品質があがります。これを追求してこそプロだと思います。

2012年5月21日月曜日

【クリエイティブ至上主義】

最近、頭に浮かぶテーマは「クリエイティブ至上主義」。
最近読んだ元博報堂の高橋宣行さんという方の本の影響もあります。
いわく「ビジネスの本質は創造作業です」www.anh-dao.com/takahashi/

高橋さんがビジネスの本質といっているとおり、クリエイティビティは制作や企画セクションだけの話じゃありません。あらゆる仕事に、あらゆる業務すべてにクリエイティビティは要求されます

クリエティブ至上主義というと自己中心的なニュアンスもありますが、いいたいことはそうではありません。ユーザー無視、コスト無視では本当のクリエティブじゃないと思うわけです。どうしようもない制約条件の中で、期待を大きくこえる創造性を発揮する。これこそが本当のクリエティブだと思います。

熱量とこだわりがないもの→作り手のクリエイティビティを感じさせないものは、もはやユーザーの共感を得られる訳がないし、選択肢が増えた世の中で、わざわざお金を払ってくれないですよね。それは、みんながユーザーの立場で考えればわかっているはずのことです。

「そこそこ」、「それなり」、「なんとなく」、「とりあえず」、、のコンテンツや伝え方はユーザーに伝わります。ユーザーはバカじゃありません。

だから「クリエイティブ至上主義」、「クリエティブの復権」。ここらへんが改めて重要と思うわけです。仕事を通じて恥ずかしくないクリエティブになっているか、お客様のへの案内にこだわり心を込め工夫をこらしているか。

会社やサービスのカラーを構成しているのは、一人ひとりの社員の一つひとつの取り組みの集大成な訳ですからね。

2012年4月22日日曜日

【ソープオペラなエンタメの可能性】

「ソープオペラ」って言葉があります。日本でいうと昼ドラ。スポンサーに石鹸会社が多かったところからこうい名前がついたらしいですが、視聴者に常習性をもってもらうために台本に工夫を凝らし、様々なシチュエーションでの老若男女が入り乱れ、恋愛や裏切りの愛憎劇が繰り広げられます。

そして、そういった要素をスポーツエンターテイメントに取り込んで成功しているのがアメリカのプロレス団体WWEです。これも優秀な脚本家によってつくられた台本をベースに昼ドラさながらに所属レスラー同士での愛憎劇が繰り広げられます。WWE会長のビンス・マクマホンやその妻、娘、息子まで本物のファミリーも総出演、大きなシナリオの中で各試合がショーとして位置づけられてストーリーが展開しています。ビンスは悪のオーナーと呼ばれ、娘はビッチ呼ばわり。試合にも参加し文字通り体を張った経営をしています。
そんなWWEは売上400億円規模のアクション・ソープオペラの総合エンタテインメント企業です。全世界で毎週1200万人が番組を視聴。ライブ、テレビ、物販、ライセンス事業から今後は映画製作も手がける戦略のようです。この振り切りが凄いです。

参考)
WWEはアクションソープオペラの総合エンタメ企業
WWEコーポレイトページ







なんでWWEの話を思いついたかというと、きっかけは「乃木坂46」。
最近、ネットのニュースで新曲の振り付けの”スカートめくり”がネットで不評だの秋元さんがスタッフに激怒したとか、Jリーグのイベントで浦和サポーター大ブーイングされたとかいろいろ話題がニュース化されています。それに呼応するようにソーシャルメディア上でも、曲がいいの悪いの、かわいいだ不細工だ、振り付けがいいの悪いの、、。馬鹿馬鹿しいと思いながらも一応YouTubeでミュージックビデオをチェックしようかという誘因になっています。
そして実際、視聴してみると、さほど下品でもないしクオリティも悪くない曲です。はからずもサビのメロディが何かに似ていると思い出すために頭を使うはめになってしまいました。悔しいですが乗せられてしまった訳です。



WWEも乃木坂46も誰がどうしようが、どうでもいいっちゃどうでもいいです。でもビンス・マクマホンも秋元さんも、それをエンターテイメントとしてちゃんと台本をつくり話題や刺激を提供している訳ですよね。



最近Facebookなどでネット上で流通している「EXILE相関図」ってのもありますが、これも「一生役に立ちそうのない、どうでもいい情報」として話題になっています。

社会が成熟してくると、コンテキストの共有を前提とした、こういうソープオペラなエンターテイメントも一つの事業機会、成長領域なんではないかと思った訳です。

2012年4月16日月曜日

【「コモディティ化という怪物」と「依存性ビジネスの猛威」】

ニュースによればテレビ依存の家電メーカーの2012年度決算は巨額赤字の壊滅状態のようです。家電の世界では最新テクノロジーの高品質な商品を売り出しても投資コストに見合う価格では売れなくなっているんですね。中の人が革新的だと思うことも世間はちょっとした改善ぐらいしか捉えてくれません。コモディティ化っていう怪物のせいらしいです。
コモディティ化とは「商品がメーカーごとの個性を失い、消費者にとってはどの商品も大差がなくなってしまう状態」。差別化不能に陥った商品は競争原理で価格下落。利幅が減って企業収益が圧迫されるという構造です。
その昔、ソニーの出井さんは、隕石によって絶滅した恐竜の例えで、コモディティ化への危機感を煽りましたが、結局、その通りになってしまった訳ですね。

一方で、現在、猛威を振るっている羽振りがいいビジネスも存在します。そんなビジネスの共通点の一つが人の依存性をうまく取り込んでいるということ。

ちなみに、そんな「依存性」には3っぐらい種類があるようです。まず「物質依存」。タバコやアルコール、薬物という身体への取り込みによって常習性が生まれやめられなくなるたつです。次に「行為依存」。買い物、収集、ネットゲーム、ギャンブル、仕事などそれをやっていないと不安になる、やることで快感を得たいというやつ。そして「関係依存」。家族や恋愛などで自己確認をしないではいられない、満足感を得たいというやつです。


心の安心や肉体の満足を求めたい、それをできるだけ安易に労力をかけずに得たい。そして最初はちょっとのつもりが依存の対象から離れられなくなる。意志がコントロールできなくなる。次第に人間関係や金銭面にまで支障をきたすことがある。これが依存です。生活費を削ってでもお金を使う人がいる。そのモデルの強力性がゆえに国が規制したり怖い人が介入したりする訳ですよね。

不況とはいえ昨今の日本において貧窮で飢え死にというのはよほどの事情のレアケース。でも基本の衣食住が満たされても欠乏感がある、不安感が解消できない、更なる満足を得たい。そんな欲求欲望に対して街中に依存型コンテンツや依存ビジネスへの誘因情報があふれている訳です。いつもテレビショッピングをやっている衛星放送とかみると、それで成立しているってことはきっと儲かっているんですね。パチンコ、ネットゲーム。韓流ドラマにアイドル、高級ブランド。お金を使うという手段によって達成感や満足感や自己確認、ストレス発散をする人から大きな利潤をあげている訳です。あげくにそんな方面でお金を使いすぎた人のための消費者金融や借金を整理したい人のための法律事務所のCM。そういうところでぐるぐるお金は巡っているように思えます。

テクノロジーがどんなに素晴らしくてもコモディティ化することもあります。プレステのハイスペックマシンよりGREEのガラケー向けソーシャルゲームのが儲かる状況が示している通りです。市場の競争原理が変わっているということなのかもしれません。

社会に対して生産的でない依存性ビジネスが大きな利益を生んでいるのは、ちょっと寂しい感じもしますし、国力も低下しちゃいそうです。でもそういったプレイヤーはユーザーに対してよくも悪くも「これじゃないと駄目だ、これがないと満足できないという」サービスを提供していることは事実です。
このクリエイティビティをうまく社会的付加価値のあるほうにもっていけたらいいとな思う訳です。もはや代替不可能なモノやサービスはテクノロジーではなくクリエイティビティからしか生まれない世の中になっているということなんでしょうから。

(参考)

Chikirinの日記:依存性ビジネスの猛威

2012年4月4日水曜日

【improvementとinnovation】

人も会社も年月で経験を積んでくると、だんだん、そつなく仕事をこなせるようになってきますよね。一方で中にいると当たり前なことが、外からみたら「なんじゃそりゃ」ってことになっている場合も往々にして起こると思うわけです。特に閉鎖的な業界の中で完結してモノゴトが進むような会社、グローバルな競争原理とは離れたところで一定の権益をあげてきた会社は要注意です。

先日、業務オペレーションの方針や施策を検討するミーティングに出席したときのこと。みんなで日々の業務上の調整事項や指標となる数値をいかに改善するかについて真剣に議論、KPIをレビューし、市場動向を見極め、ユーザーニーズを探り、今悪い点をよくするためにどうするべきか、、。それはそれで重要なことだし何ら否定されるものでもありません。でも、なんか違うな、足りないな、と感じてしまった訳です。

なんでだろうと考えたとき、ふと、これって要するに改善と改良の話しかされてないからじゃないかと思った訳です。英語でいえばIMPROVEの話に終始しINNOVATIONの話がないというということかもしれません。

モノゴトを変えていく概念には、改善、改良、改革、革新などいろんな言葉があります。辞書的にいうと、
・改善:悪いところを改めてよくすること
・改良:不備な点や悪い点を(性質を変えない範囲で)改めてよくすること。
・改革:従来の制度・枠組みなどを改めてよりよいものにすること。
・革新:旧来の制度・組織・方法・習慣などを改めて新しくすること。
、、とありました。

改善と改良に一生懸命取り組めば、短期的には努力に応じた成果に結びつくかもしれません。でも、いろんなビジネス構造が変化している昨今、もっと大きな流れの中で、改善改良の効果が無効になってしまうこともありますよね。たとえばガラケーの機能をいくら改善しても、もはやiOSやAndroidのスマホの世界になったら付加価値も何もあったもんじゃありません。多かれ少なかれ日本のいろんな会社でそんなことが起こっていると思うのです。

10年ほど前、ある口の悪い電機メーカーの幹部が言っていました。「日本のテレビメーカは、50年間、テレビの画質向上しか技術進歩をさせてないんだよ。早晩、コモディティ化の中でビジネスとしてはダメになるだろうね。」と。それから10年、まさしくその通りになりました。ハイビジョンだ、液晶だ、有機ELだ、3Dだ、といっても、それは技術的に先進的なイノベーションがあったとしても、ユーザーからみたら画の改善改良でしかないと言えますものね。結局、大型高画質テレビの市場価値は数万円まで落ち込みました。

一方でAppleのiPhoneやiPadは技術的にはパソコンの延長線上にあるのかもしれないし、基盤部品の技術は日本にあるのかもしれません。でもユーザーからみたら、いままでに経験したことのない世界観を実現したところにイノベーションがあると思うわけです。結果、日本の電機メーカーの時価総額を全部集めても足元にも及ばないほど企業価値評価に差がついてしまいました。これからユーザーインターフェイスやコンテンツ、サービス連動のモデルをつくっていくのも結構つらそうです。

何を思うかといえば、上に立つリーダーが、将来を見据えたイノベーティブな指針を出していかないといけないなってことです。というか、それが主な仕事なんでしょうね。ユーザーからみた付加価値がどこにあるかを見極め、その付加価値を向上させる方法論を示していかないといけません。それはモノゴトの大小とは関係なくということが重要です。従来の業務上のKPIとは違う話になるかもしれません。リソースの使い方がまったく変わってしまうかもしれません。これまでの付加価値の一部が毀損してしまうかもしれません。でも、それをしていかなければ、いずれ日本のテレビメーカーのように、にっちもさっちもいかなくなってしまうのではないか、と思うわけです。


参考:
「改善」は「現状肯定の観点から改良する」、「改革」は「現状否定の観点から新しい姿にする」と定義づけられます。言い換えると、「改善」は「現状の延長線上で方法や手続きを変える」、そして「改革」は「将来志向から考え方を変革する」ということ。http://www.jmac.co.jp/wisdom/management/mg_04.php

参考:
「偉大な企業はすべてを正しく行うが故に失敗する」
イノベーションのジレンマ
http://blogs.itmedia.co.jp/saito/2009/12/google20-9d35.html
http://eicolab.com.au/2008/12/01/the-innovation-interrupt/

2012年4月1日日曜日

【ブータン的「しあわせ」の話】

先日、ブータンの首相が国連で「国民総幸福量(GNH)」の世界的な普及を目指し、日本と協調していく」との会見ニュースがありました。最近注目のブータンは国民の97%が幸せと答える国だそうです。そのブータンと”GDP経済モデルの頂点に達し、その限界と問題点を熟知している”日本が強調すればGNHの概念を推進することができる!ということなんですね。(ちなみにGNHとはGross National Happinessのこと。物質的豊かさでなく、心の充実感を指標化した概念です)

日本でも震災を契機に幸せとは何か、本当の豊かさとは何か、ということが、それまで以上に深く考えられるようになってきていると思います。ありていに言えば物質的、経済的な豊かさが必ずしも「幸せ」や「こころの豊かさ」に直結するものではないということへの再認識でしょうか。


先般、ブータン現地で公務員として働いた日本人女性がブータンの日常をまじえて書いたエッセイ「ブータンこれでいいのだ」という本を読みました。それを読んでもわかるのは、(当たり前ですが)ブータンに苦労や苦難がないということではないということです。それでも皆が幸せを感じているのは「幸せ」の範囲が広いからなんですね。自分だけではなく、他人によいことがあっても幸せだし、今だけでなく、過去、未来、来世をも含めて幸せを考える。だから日本でよく言われるような「もっと幸せになりたい」みたいな概念はきっと希薄なんだろうなと思いました。

でも、もともと日本人も、このブータンに通じる感覚を持ち合わせていたように思います。幸せはなるものではなく感じるもの。幸せは探すものではなく気づくもの。足るを知る。そういう言葉がありますものね。そうすると「じゃあ弱い立場の人、貧しい人にも”足るを知れば幸せだ”といえるのか」みたいな論調が必ずでてきますが、そういう議論をしているうちは永遠にブータン人のような幸せは感じられないような気がします。

そもそも日本語の「しあわせ」は「幸せ」ではなく「仕合せ」でした。夏目漱石とかの近代文学を読んでいると「しあわせ」は「仕合せ」としてでてきます。調べてみると日本語の「しあわせ」の語源は「し合わす」。「し」は動詞「する」のこと。何か二つ以上のことが合わさること、つまり、たまたま偶然なめぐり合わせな感じ、それを有り難く感謝する感じ、それがもともとの「しあわせ」だったようです。

食料や物資が不足していた時代、その不足が解消すれば今より幸せになれると信じ、マイカー、マイホームをもてば幸せになれる、お金が増えれば幸せになれる、足らない何かを補えたら、誰かが何かをしてくれたら、と進んできました。確かに経済的発展を遂げました。それはそれで素晴らしいことです。しかし、そんな中で「仕合せ」を思う感覚が少なくなってしまったのかもしれません。

今後、この感覚の違いが今後のビジネスのありようにも大きく影響してくるように思います。モノやサービスで、足らないものを提供する、不満足を解消する、、。もちろんニーズがあればビジネスにつながります。「いつでも、どこでも、あなたの好きなモノが得られますよ」、、こういった従来型のサービスは魅力的かもしれません。
でも「仕合せ」感を考えると、物欲で何かを得ること、自分だけの充足感、優越感を得るといった低次な欲求ではなく、もっと他との関わりや貢献、そこから生まれる偶然性ある巡り合わせや、出来事、そこに価値が見いだされる世の中になっていくように感じます。ここらへんのパラダイムシフトをとらえないとビジネスがやがて経済的にも無意味なものになっていくのではないかと思ったりします。


【参考】
ブータン国王が国会で演説
「幸福度」国際社会に提案、日本と協力(朝日新聞デジタル)
「ブータン、これでいいのだ」御手洗瑞子
幸せの語源
名言から学ぶ幸せのヒント
「足るを知る」に騙されていませんか(日経ビジネスオンライン)

.

2012年2月20日月曜日

【アニソンとJ-POPの可能性】

先週、ふと耳にして、久々にこれはすげー曲だと思ったのが中島愛というアーティストの曲「TRY UNITE!」と「金色~君を好きになってよかった」。知らなかったですが中島愛という方は声優さん、曲はいわゆるアニソンなんですかね。

しかしその楽曲のハイクオリティな感じ、隙のないメロディと浮遊感あふれるコード進行とハウスなアレンジ。聞けば編曲はラスマス・フェイバー!なんですね。そしてアルバムの作曲家陣をみるとサエキけんぞうさんや大江千里さんなど懐かしい名前も。80年代から90年代を生き抜いてこられたプロフェッショナルな方々です。

-*-*-*-*-
AKB、ジャニーズ、K-POP、アニソン以外、なかなかヒットが出なくなっている音楽業界ですが、しかし実は、そんなAKBやアニソンの音楽的背景を支えているのはこういったプロフェッショナルな作家だったりするんですね。確かにAKBの曲もクオリティの高い曲が多い気がします。

「80年代、アニソン、作家」で検索したら、次のようなブログもみつかりました。
http://d.hatena.ne.jp/fg730/20100731 。。。確かにそうかもしれません。

音楽が元気のよかった80年代、なんだかんだ言ってもヒット曲の中心は歌謡曲でした。聖子ちゃん、明菜ちゃん、キョンキョン、ジャニーズ、おにゃんこ。歌手のストーリーや下世話な感じを含め楽曲のパワーがありました。そして、それらの楽曲を支えたのは実力ある多様な職業作家でした。

しかし、90年代以降に、○○ブームの名の下で作家陣の寡占化→画一化傾向や、アーティスト性の訴求を重視する中での自作自演が一般化→作詞作曲の素人化も同進んでしまったのかもしれません。その結果、J-POPの歌詞は「翼広げすぎ」「桜舞いすぎ」「私弱すぎ」「瞳閉じすぎ」「君の名を呼びすぎ」などと揶揄される状況に至りました。(もちろん、いい曲はたくさんあるんですけどね。)

そんな中でのアニソンです。アニソン歌手は声優だったりするので楽曲を自らつくることは少ないようです。そこに多様な職業作家が楽曲を提供する。ラスマスのように海外からの才能も集まってくる。楽曲には必然的にアニメのストーリー性が付加される。制約条件が逆にクリエイティビティを生む。

そこには80年代にあった歌のストーリー性とプロフェッショナリティの復権があるのかもしれません。

そんなことを感じた中島愛の楽曲だったのでした。




参考)翼広げすぎなJ-POP
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1011/04/news089.html


参考)ラスマス・フェイバー、日本のアニメーターとのコラボMV